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8月12日、日航123便
23年前の今、この時間(この日記を書いているのは12日の午後8時ころです)、当時私は国鉄の鉄道管理局・電気部・総務課・庶務係と言う仕事をしていました。国鉄の民営分割の2年前です。その日は国鉄当時としては大変珍しい「出向」という制度があり、長野県・軽井沢町の大手のホテルに泊り込みで1ヶ月くらいだったか勤務しておりました。民営分割をにらんだ特別な制度だったようです。 夏の暑い日で所属の電気部総務課で「暑気払いをするのでたまには戻ってこい。」との事で駅前のビアガーデンで励まされ、軽井沢に戻るため高崎駅のテレビで事故報道を目にしました。
日本航空・東京発大阪行き・123便。群馬・長野県境で山に墜落したらしい…。との報道で、多くの人が足を止めテレビを見上げていました。まだ新幹線もできる前ですから確か木造の駅舎だったと思います。 まだ、現場映像は放送になっておらず、乗客名簿、乗務員名簿が放送されておりその中に中学・高校と同級生だったKYOさんの名前を見つけました。日航のキャビンアテンダント、当時はスチワーデス?になって国際線で勤務していると聞いていたのですがまさか国内線でしかも墜落?そんな馬鹿な!でもフルネームが同じで、すぐさま彼女の友達に連絡をしました。……まさかと思いました。でも、現実は過酷なものです。
今日の午前中、群馬県警の方が当時、「日航機墜落事故死傷者身元確認の責任者」としてテレビ出演しておりました。写真の記念碑の反対側に藤岡市の体育館があり、そこが死亡者の仮安置所、兼身元の確認のための施設になっていたそうです。 今、体育館は解体され、綺麗な芝生のグランドになっています。 彼女もここに仮に安置され、ご両親の元に帰っていったことでしょう。日航の職員でありなんとも言えぬものがあっただろうと思います。 今日のテレビを見るまで、こんな近くにも「23年前」があるなんて知りませんでした。多くのヘリコプターが飛び交い本庄からも応援に行った方の話も聞いたことがありました。 テレビの中でボイスレコーダーの放送がありました。あんな状況の中で、どんな状況でお客様の対応をしていたのか…。 ただただ、520名のご冥福を祈るだけでありますが、二度と二度と繰り返しませんように祈ります。そして、この日は決して忘れません。
日時 2008年08月13日 10:17 |
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